蹴遊記

スポーツとしてのサッカーだけでなく、文化としてのフットボールについて書いたり……

ロシアへのモチベーション part2

さあ、ロシア行きが迫ってきました。てか、もう始まりましたね
初戦は見事勝利!!俄然、ロシアへのモチベーションが見えてきました。

ロシアに行く前に色々と整理しておきます。

正直、一か月前まではかなりの葛藤が渦巻いていました。ロシアに行く理由も「もう金払っちゃったから」程度でした。でも、やっぱり協会のゴタゴタと応援することは切り離さないとダメなんです。

協会云々、戦術云々を指摘するのは有識者
応援するのはファン

ロシアに行くのは後者としてだぞと考えることで整理をすることができました。と、ここでそもそもなんで応援なんてするんでしょうか?僕の学んでる経済学的に見れば、体力とお金と時間を使ってサッカーチームを応援するというのは、どうも納得ができません。ロシアに行くまえにそこらへんも整理しておきましょう。

そもそも、今の世界は...

    このテーマは去年レポートとして提出したテーマでもあります。サポーターの存在を考えるうえで、まずはそのサポーターが存在する今の世界を考えてみたいと思います。

   今の世界は皆さんもご存知の通り「資本主義」の考え方が根底にあります。資本主義とはざっくり言うと、「働いた人が稼いだお金を自由に使える世界」です。では、なんで働くのでしょうか?これへの答えはずばり、「生きるため」なのです。お金がなきゃ何も食べれず、どこにも住めません。では、なんのために生きているのでしょうか?

   経済学では、よく、人が持つ時間を働いてる時間と余暇に分類して考えます。余暇(働いてない時間)を充実させるために人は働くと考えます。一方で、このことについて、資本主義批判を行ったマルクスは「余暇は労働力の再生産」と位置づけました。余暇を送ることで、仕事で疲れた体を回復し、また働く。つまりは「働くために生きる」みたいなことです。「生きるために働いている」と思っていたのに、実は「働くために生きていた」んですね。そして、働くことで創られた財は労働者の元へは行かず、社会全体の利益としてみなされるのです。 

   ニュアンス的には、人間は社会全体の利益を生み出すための駒と考えるとわかりやすいかと思います。

サッカーと愛国心

  上に書いたように考えると、自分と他人の違いが分からなくなります。自分も他人も利益創造のための駒にすぎないからです。そう考えると、自分の存在自体がよく分からなくなりますよね?でも、確かに、自分はこの世に存在するわけで、人はそれを証明したくなるのではないでしょう。「自分が存在しているよ」「他人と自分は違うよ」そんなことを示すために、「アイデンティティの強調」が始まります。最近、YouTuberがはやり始めたり、SNSが流行っているのもこれが原因なのではと思っています。

  さあ、その「アイデンティティの強調」の一部に、「フットボールチームの応援」があると思うんです。自分のアイデンティティがどこにあるかを示すために、自分のローカルチームを応援する。
フットボール文化が、資本主義の始まりと共にイギリスで生じたことも納得できます。たくさんの労働者が都市に流入した産業革命期のイギリスでは、各労働者が自分のローカルチームを自分のアイデンティティに置き換えたらしいです。(これは清義明の著書参照です。)

  そして、この、チームをアイデンティティと考える考え方は自然と愛国心ナショナリズム)へと変容するのです。ナショナリズムはその範囲を狭めると高まるものですから(日本出身という人より、東京出身という人の方が仲間な感じしますよね)、一般的にナショナルチームよりもクラブチームへの熱量が大きくなるってのはあるあるだと思います。(個人的には日本代表より東京の方が何百倍もの愛があります)

つまり...

何が言いたいかといえば、僕たちのチームへの応援とは自分の存在証明みたいなものなんですきっと。だからこそ、チームに誇りを感じ、勝ってほしい。


今回、ロシアで応援する理由、それはずばり、「日本人だから」。

これ以上の理由は浮かびませんでした。